札幌高等裁判所 昭和38年(ネ)217号 判決 1966年9月29日
控訴人(被告) 雄別炭礦株式会社
被控訴人(原告) 泉信夫 外七名
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は「原判決を取り消す。被控訴人らの仮処分申請をいずれも却下する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人ら代理人は主文同旨の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述および疎明関係は、左記のほか原判決の事実摘示と同一であるから、これを引用する。
(控訴人の主張)
一 控訴人は、被控訴人らが本件文書(生産妨害等の指示文書)を作成回覧した行為や、従前の生産阻害行為を個々独立に数えあげて解雇理由にしたものではなく、もともと被控訴人らが有する企業破壊の危険性を理由としたものであり、これらの個々の事実は、いずれも、控訴人が被控訴人らについて、前記危険性の度合を認定した根拠として主張しているのである。すなわち被控訴人らは従前数々の生産阻害行為を累積してきたのであり、控訴人が本件文書を契機として遂に解雇を決意したとしても、その契機をなした事実のみが解雇の理由となるものではない。
二 被控訴人らおよび申請外新居昭七ならびに当審において申請を取り下げた平間信一の一〇名は、一般従業員のなかで特別なグループを形成し、統一的な意思にもとづいて行動していたものである。被控訴人らが外観上も明確に他と区別されるような特別のグループとしての存在を明らかにしたのは、昭和三四年六月以降の、いわゆる炭労の指令にもとづく大衆行動激発の際のことであつた。当時被控訴人らは、泉、追泉、峰田、中田、高橋(与)、申請外新居昭七らが中心となつて毎日のように会合を開き、いわゆる大衆行動の誘発、実行等に関してあらかじめ打合せをなし、更に現場においては、被控訴人らのうちの何名かが必ず参加して、互に呼応しながら一般組合員らを煽動して事態を激化させることに努めていた。またその頃被控訴人らは、単に大衆行動という特殊な機会を利用するのみでなく、日常作業においても、会社に対する加害策として、生産サボ、作業指示拒否など、生産阻害の活動を展開して行くことを申し合わせ、いわゆる大衆行動が昭和三四年七月中頃をもつて一段落したのちにおいても、毎月必ず二回程度は会合を開くほか、あらゆる機会を捉えて常に緊密な接触を保ち、グループ内の意思統一や情報交換等につとめていた。
被控訴人らの会合は、主として泉、高橋(与)、あるいは新居昭七の自宅において開かれていたが、のちには、その会合が近隣に目立ちすぎることをおそれ、参集者の数をことさら少数に制限するなどの用心まで払つたにも拘らず、被控訴人らが他の一般従業員と異る特別なグループとして、いつも会合しているということは、居住区において誰知らぬ者もないほどの顕著な事実となつていた。また職場においても、被控訴人らが休憩時間中のみならず作業時間中ですら、余人を混えず話しこんでいるとか、前方(まえかた)と後方(あとかた)との交替の際に人車乗り場などで密談しているというような情景は、四六時中見受けられたところであつて、これまた職場における常識的事実となつていた。
三 被控訴人らのうち、泉、高橋(与)、追泉、峰田、高橋(敬)、中田の六名は日本共産党の党員で、日本共産党尺別細胞を構成し、細胞長は当初は中田、昭和三五年五月以降は高橋(与)であつた。また、被控訴人早坂、横沢および前記平間ならびに申請外新居昭七も同党の党員であるか、または厳密な意味での入党手続を経た、いわゆる正式党員でないとしても有力な同調者であつた。そして日本共産党尺別細胞は、長い間の非公然状態を放擲して昭和三六年九月三日公然と名乗りをあげ、これに伴つて同細胞を中核とする同調者グループは俄然動きが活溌となつてきていたし、一一月には日本共産党の外部団体たる民主青年同盟の結成をみようとする時機でもあつた。また控訴人の企業内部の情勢としては、いわゆる石炭危機の真最中で、全従業員の生活の基盤である企業の存立を守るためには、合理化に次ぐ合理化を強行せざるを得ず、職場規律の面からも引締めが推進され、組合(尺別労働組合)もまた事態の深刻をよく認識して、同年五月二九日には、いわゆる三六年協定が締結され、生産阻害者の排除のため強力な方針が打ち出されてきていた。すなわち控訴会社の尺別山もとでは、日本共産党尺別細胞の上向き姿勢と、企業全体としての厳しい規制とが丁度真向から対立する形勢となつていたのであり、現に同年九月二九日には、尺別細胞の側から控訴会社の尺別礦業所労務課長に会談を申し入れ、公然化後初めて尺別細胞対会社の対決の場面まで現出してきたのである。
このような情勢のなかで、尺別細胞がその同調者らを含めた特殊グループを糾合して、従前からの活動に一段落を与え、新しい行動方針のもとに改めて強力な活動を展開しようとするのに何の不思議もない。この観点からすれば、本件文書の内容は、この事態に適合しすぎる程適合しているといわなければならない。
被控訴人らは本件解雇が被控訴人らの日本共産党員またはその同調者であることを理由とする差別的な不利益取扱いであると主張するが、単に党員であるというようなことは本件解雇とは関係がない。ただ日本共産党が現在わが国の拠つてたつところの社会経済組織ないしは国家組織を全面的に否定して、これと全く両立し得ない別途の支配体制を樹立しようとし、この目的のためには、いわゆる暴力革命をも敢て辞するものでないという、極めて実践的な政治団体であることは公知の事実であつて、被控訴人らがその党員ないしは同調者として控訴会社の業務に非協力的であるのは当然であり、むしろ党に忠実であればあるほど常に資本の力を崩し弱める方向に活動すべき義務を負つているわけであるから、本件文書も、その見地からすれば十分その内容を肯認することができる。そして本件文書の作成回覧等、被控訴人らのすべての言動が、控訴会社の生産を現実に阻害し、もしくはその危険を生ぜしめる行為であつて、このような行為のある被控訴人らを、これ以上雇傭することは労使関係の信義則から到底耐え難いところであるから、控訴人は本件解雇を敢てしたものである。
四 本件文書は被控訴人泉により作成され、高橋(与)から発して、追泉、早坂、中田、峰田、高橋(敬)、新居と順次回覧されたのであるが、新居はこの文書を受け取り、その内容の重大性に驚き、これをそのまま、次に指定されている平間に手渡すべきか否かについて苦慮した結果、昭和三六年一〇月六日夕刻、右文書を携えて控訴会社尺別礦業所労務課長補佐小川日出男の自宅を訪れて事情を打ち明けたのである。
そもそも新居昭七(旧姓工藤)は、もと控訴会社の組夫(下請労働者)として稼働していた者であるが、控訴会社の殉職者の娘で入替え採用により控訴会社に勤務していた新居某女と、いわゆる婿養子縁組をし、右某女の入替えとして昭和三三年に控訴会社尺別礦業所の坑内間接夫として採用された者であるところ、同じ職場の仲間としては被控訴人らのグループ以外には親交を結ぶ者とてなく、本件の問題に際会して思いあぐねたすえ、養子縁組前からいろいろと世話になつていて、妻や妻の母も信頼し、その関係から特に家庭内の問題についても、叱られたり面倒をかけたりしている小川に相談しようと考えたのである。しかも小川は長らく労務関係の第一線を担当するほか居住区の区長も歴任し、いわば従業員の私生活上の相談を一手に引き受けるような地位にあり、その人柄は質朴かつ厳格である。新居が小川の家に駆けこんだのは、当時の切羽づまつた同人の立場からすれば、当然の行為であつた。
また新居は昭和三六年八月には、かねて念願していた坑内直接夫に転じ、収入は一挙に倍以上に増え、生活も安定してきていたのであり、その頃から日本共産党というものの実態について多分に疑問をいだくようになつていた。すなわち、前記のとおり新居方は、昭和一八年に一家の稼ぎ手が殉職してのち一五年間もの間、女手一つで三名の幼い子女を抱えて苦労してきた家庭であるだけに、金銭的には極めて切りつめた生活をしてきたものであるし、そこへ新居昭七が這入りこんで行つても、坑内間接夫の収入は一カ月二万円そこそこであり、他方入替え採用のため妻は退職しなければならなかつたから、坑内直接夫に転ずるまで収入面においては五十歩百歩にすぎなかつたのである。しかも新居は若年から貨物船の乗組員として諸所を歩きまわり、久しぶりで帰つて間もなく父の死に遭い、もののはずみとはいえ、思わぬ刑事事件に陥り、漸くこれから脱却したのちも、なお二、三カ所を転々として尺別炭山にたどりつくなど、いわば数奇な経歴を余儀なくされてきたのであるから、本件文書の件に当面した頃は、いわば物心ついて初めて家庭の幸福というものの味を知つた時に当るともいえるのである。
もとより新居といえども、本件文書について小川に相談することが、或いは会社に洩れる危険を生ずることも考えたに相違ない。だからこそ小川に相談するときには、絶対に会社に見せないでくれと念を押しているのであり、このことが本件解雇事件の発端となつたけれども、これはこの時点における新居の精一杯の気持であつた。
五 小川は本件文書を一読したうえ、新居を自宅に待たせておき、急拠これを控訴会社労務課長苫米地春郎のもとに持参して指示を乞うた。苫米地は、図らずも回覧の途中にある本件文書を閲覧する機会を持つたので、短時間の間に決断して処理することを要するとして、とりあえず右文書をリコピーして記録を取り、原本は新居に返却せしめることとした。苫米地としては、将来の証拠資料として原本を取り上げるべきであつたかも知れないが、文書の内容があまりにも重大怪奇であるし、新居からは、会社に見せないでくれと懇願されているのであるから、同人の立場も当然配慮しなければならないので、これが真疑を検討するために、自分の閲覧した結果を記録に止めることのみを考えたのである。かくて右文書はまもなく小川から新居に返却され、新居がこれを同日午後一一時頃、平間信一に手交し、更に平間から横沢に到達し、そこで指示どおり焼却されたのである。
六 前記の事情で控訴会社の手中にある本件文書のリコピー(乙第一号証の一)は、新居から平間に回覧される途中において複製されたのであるから、回覧順を示す矢印のうち平間から横沢に至る部分が現われていないのである。
また高橋(与)および泉は本件文書の記載に関する限りでは、その氏名を現わしていない。しかしながら前述のとおり高橋(与)は当時日本共産党尺別細胞の細胞長の地位にあり、上位機関からの指令、通達類はもとより、細胞内の意思の連絡はすべて細胞長から各構成員に対してするのが実情であつた。本件文書は日本共産党組織内における一種の行動指令に属する文書であるか、または少なくとも尺別細胞がイニシアテイブをとつて発出したものであるから、その発出者は細胞長たる高橋(与)であることは明らかであるし、泉は執筆者であるから、右両名の氏名が文書の回覧先として記載されなかつたのは当然である。現に泉は同年一〇月二二日から組合用務のため長期出張して同年一一月四日尺別の山もとに帰着したが、そのとき本件文書を控訴会社が入手したとの漠然たるうわさをきき、直ちに小川労務課長補佐を一区の詰所に訪れて抗議し「拾つたものであれば正当な届けをすべきではないか。」と述べ、それが一体どんなものであるか、そういうものがあるかどうかすら確認しようとしなかつた。
七 本件において提出された鑑定のうち藤田鑑定を除くその余の鑑定結果は、全体として考察した場合、むしろ泉の筆跡を肯定する方向に揃つている。すなわち遠藤、一鷹の両鑑定は泉の筆跡であることを完全に肯定し、高村鑑定は比喩的にいえば少なくとも七〇パーセントの確率をもつて肯定、伊木鑑定は、いわば五〇対五〇ないし零と評価することができるであろう。すなわちこれらの筆跡鑑定の結果は圧倒的に泉を指しているのである。
藤田鑑定については遂に鑑定資料たる対照文書は提出されなかつたし、藤田経世氏の地位、職業等についても被控訴人らの主張を裏付ける資料は何もない。しかも藤田鑑定には単にその末尾に「一九六一年一二月」と記載されているだけで、果していつ依頼し、いつ完成したかも不明である。
しかも藤田鑑定を含め、本件文書が泉の筆跡であることを決定的に否定した鑑定は遂に現われなかつた。その藤田鑑定においても、紙質不明の点とか、原本そのものを閲覧し得ないこととかの留保を附して、もしこれらの条件が充たされる場合は、却つて反対の判断に到達する可能性のあることまでつけ加えているのである。
元来、筆跡というものは、専門的な鑑定において科学的な手法により解明することのほか、極めて印象的要素を有しており、とつさにある筆跡に接した場合に働らく直感あるいは第一印象が極めて高度の信頼性を有するものなのであるが、昭和二五年以来組合書記として、書記長である被控訴人泉と密接な関係にあり、泉の筆跡に親しんできた申請外斎藤忠良は、昭和三六年一一月七日本件文書のリコピーを見て「泉の字に似ている。」と述べたし、その以前に一区の詰所において山口区長から約一〇名の労務係員に初めて示されたところ、そのうち五、六名の者がかねてから泉の筆跡を承知しており、同人らの間ではこの文書が泉の手になるものであることについて毫も異論がなかつた。
また本件文書のなかに「組識」、「拡〔編注:原文では「広」の上の点はありません〕大」、「防害」の三つの誤字があり、「アカハタ」が「赤旗」と表現されているが、この事実のみをもつて本件文書の真正を覆すことはできない。一般に組合文書等のなかにも、これに類する誤字、誤用は珍らしい例ではないのである。被控訴人は本件文書が偽造であると主張するが、わざわざこのような文書を偽造しようとするならば、何を好んで、このような誤字、誤用を敢てするであろうか。
更に被控訴人らは本件文書における各人の氏名の抹消の仕方がおかしいとか、矢印で示された回覧順が社宅の配置と符合しないなどと主張する。しかし各人の氏名抹消が、それぞれ互いに相違していることは本件文書そのものから明らかであり、回覧の方法がこのような場合、常に自宅から自宅へと手渡す方法のみに限られる理由は毫もない。当時被控訴人らは折に触れ、事あるごとに顔を合わせていたのであり、被控訴人らの職場、番方等によつて手渡す順序はいかようにも組合せができるであろう。逆にいえば、常に自宅から自宅へと回覧されるものならば、むしろ当初からその順序に氏名を列記すれば足りる。実際の姿はそういう方法をとつていないからこそ、抹消したり矢印をもつて経路を示したりする必要があつたのである。
「執行部の正体暴露」については、前述の、いわゆる三六年協定に対し、一般組合員の間に組合執行部に対する不信感をもりあげ、その失脚をはかり、細胞の支配を樹立しようとする活動方針に資するものであることが明らかである。すなわち尺別細胞は、被控訴人追泉の試算を基礎に賃下げの具体的数字を見せて職場の同僚に煽動的な情宣を行ない、幹事会、大会を紛糾させて、執行部不信任、共産党待望の気運を醸成しようとした。また被控訴人峰田が組合大会の席上、連合会が控訴会社から一二〇万円を受領したとして緊急質問をしたこともその現われである。そしてこの戦略は、やがて同年九月三日の尺別細胞公然化につながつて行くのである。「組夫の組織化」についても、下請業者たる池組の組夫を組織化しようとする細胞の方針に従つた実践活動である。
八 被控訴人らに対する本件解雇は、控訴人らの主張する「第二次中央協定等」のほか、労働協約第一五条、同附属覚書第一三項に準拠して行なわれたものである。すなわち会社の就業規則(解雇に関する規定は、その五三条、五五条)には、いわゆる解雇基準を特定する規定をおかず、労働協約においてもこの点を補充する定めはない。ただ労働協約第一五条は一号ないし七号の場合(本人の希望によるとき等)を特定し、これ以外の事由で解雇する場合には「組合」と協議する旨の手続規定を定めているのみである。その他、会社には制限的、例示的のいかんを問わず、従業員を解雇する場合の解雇理由を定めた規定はなく、その他、組合との間に締結した協約、協定の類も存在しない。したがつて、会社において従業員を解雇しようとする場合には、実体上の解雇理由の制限はなく、ただ協約第一五条各号に当らない場合には、「組合」との間に誠実な協議を尽しさえすれば、法律上有効に解雇できるのである。
「第二次中央協定等」のうち「議事録抜萃」は労働協約ではないが、事実上の慣行として当事者がこれを尊重してきたものである。しかしながら同抜萃中に表現された労使の意見は、その根本趣旨においては同一であることが窺われるが、その文言はそれぞれに相違している。いやしくも労働協約中の一項として規範的効力をもつて解雇基準が設定される場合には、その重要性に照らし、細部にわたつて両者の意見が一致していることが明らかにされ、かつ解雇事由が文言上明確にされていなければならない。右抜萃はそのような点で欠けるところがあるから、これを被控訴人の主張するように労働協約の解雇基準と見るのは正当でない。しかしながら、それだからといつて控訴人は右抜萃が労使関係のなかにおいてもつ重要性を否認するものではなく、根本趣旨において、いやしくも労使の合意を内容とするものである以上、労使双方ともこれを尊重すべきものと考える。
仮に「第二次中央協定等」が労働協約の一部ないしは労働協約と同一の効力を有するものと解されるとしても、その実質から言つて、これが使用者の解雇権を制限する新たな解雇基準を設定したものということはできない。なんとなれば、「議事録抜萃」第二項の生産阻害者対策についての部分は、企業に対して危害を及ぼすおそれのある者、あるいは非協力的な者を企業外に排除しようとする点において合意されたものであつて、ここにいう「排除」は解雇につながる問題であり、労働協約第一五条に関する合意として規定されたものと解すべきであるところ(これに反し昭和三五年八月一一日付の合意における職場規律確立の問題の第二項は、現実になされた職場規律紊乱の行為を企業秩序に照らして処分する懲戒の問題であつて、明らかにその本質を異にする。)、労働協約第一五条は、前述のとおり、ただ単に協議する旨を定める手続規定であつて、同協約には解雇の場合における解雇基準に該当する要素は全然存在しないからである。
九 かくて本件に関し昭和三六年一一月六日から翌昭和三七年一月まで三カ月にわたつて組合との団交が行なわれ、その経過はその都度組合員大衆にも発表されてきた。その間、道炭労を中心として、炭労が「疑わしきは罰せず」との方針に則り、その処分に反対してきたし、また各種団体が処分反対を理由に熾烈な宣伝活動を行なつたにも拘わらず、組合および連合会は昭和三七年一月一〇日から一三日にかけての全員投票において、絶対多数をもつて被控訴人らの解雇を承認したのである。なお前記団交において被控訴人らの従前の生産阻害行為ないしは被控訴人らが非協力的存在であることについては、労使間においては自明のところであつたから深く論議されることなく、当面の重要問題である本件文書の信憑性に集中して論議がなされたものであるが、組合および連合会は、被控訴人らの過去における行動をも総合して、解雇承認を決定したものである。
一〇 本件解雇は懲戒解雇ではなく通常解雇である。すなわち通常解雇は労働基準法第二〇条にもとづき、予告期間を与え、または予告手当を支給してなす労働契約の解約告知であり、その契約法上の根拠は民法第六二七条に求められる。もとより解約につき法律上正当の理由の存在を要しない。このことは労働者の側における退職の自由に対応し、使用者の側の解雇の自由と称せられる権利である。
しかしながら、現実の労働関係においては、労働者は個人として使用者よりも著しく弱い立場におかれていると信じられ、解雇は労働者の生存を奪うに等しいかのように観念されてきたため、使用者の側からする解約告知としての解雇については事実上の制約を受け、相当の理由を欠く解雇は専ら労働者を害するための権利行使として解雇権の濫用とされるに至つた。しかもこの場合、解雇に相当の理由が認められない以上、その解雇は使用者が専ら労働者を害しようとしたものとの事実上の推定がなされるのである。
元来、労使関係は継続的結合の関係であり、労使双方の信頼と誠実によつて成立し、かつ維持されるべきものであるから、これを将来に向つて消滅させるべき解雇についての相当の理由の有無も、また労使関係を律する信義則にもとづいて判断されなければならない。しかしながら使用者において、労働者の行為に照らし、企業に対する現実的危険性があると信じ、そのため、その労働者に対する信頼性を喪失してこれを解雇する場合にあつては、このような場合にとり得る手段を尽くしてその確信に到達し、これについて一般的な合理性が存するならば、その解雇は適法なものとされ、解雇権の濫用にはならないというべきである。何となれば、このような場合に解雇を許しても何ら社会の倫理観念ないし公序良俗に反する結果を生ずることなく、却つてこのような場合にまで雇傭の継続を強制することは、むしろ使用者側の解雇の自由を無視する結果となるからである。
したがつて、仮に本件文書の作成、発出、回覧に関する控訴人の主張事実の若干の部分について直接的な証拠を欠くとしても、控訴人は本件文書を最も権威ある二人の専門家の鑑定に附し、一致した肯定の結論を得たうえ、被控訴人らの従前の行動と考え併せて、被控訴人らにそのような行為があつたと信じたものであり、しかも組合との間に三カ月に及ぶ慎重な協議を続け、組合員の全員投票における絶対多数の支持を得たので遂に解雇に踏み切つたものであつて、控訴人がそのように信じたことについては、まことに無理からぬものがあつたから、本件解雇が権利の濫用となるものではない。
(被控訴人らの主張)
一 昭和三六年九月頃、被控訴人らのうち、泉、高橋(与)、追泉、峰田、高橋(敬)の六名が日本共産党の党員であつたことは前に主張したとおりであるし、控訴人主張のとおりこれらの者が日本共産党尺別細胞を構成し、その頃細胞長が高橋(与)であつたことは認めるが、申請外新居昭七が同党の党員であつたことはない。新居は過去に強盗傷人罪により懲役六年の刑に処せられ、函館少年刑務所で刑の執行を受けたことがあり、女性関係等の不行跡もあつて、その人格は極めて異状である。同人が本件文書を被控訴人らから入手して回覧したというが如きは全くの虚構の事実である。
二 控訴人は、本件文書を書いたのが被控訴人泉であり、この指令を発出した者は被控訴人高橋(与)であると主張するが、高橋(与)がこの指令を発出したという事実は全くない。泉がこれを書いたという点についても、なるほど本件文書の筆跡は一見して泉の筆跡に酷似しているようであるけれども、泉がこのような文書を書いたことはないし、また書く理由も必要性も存在しない。右は何人かが被控訴人らを陥れるためにデツチあげたものというほかはない。
本件文書に記載された(昭和三六年)九月三〇日に尺別細胞として「今後の行動について」というような回覧文書(本件文書)を出す必要はなかつた。右文書の第三項に記載された「生産の妨害」というようなことについて従来細胞で討議されたことは全くなかつたし、大体尺別細胞は控訴人の主張するとおり同年九月三日に、いわゆる公然化し、その存在を明確にして行動を始めたところであり、そのような際に、わざわざ文書で隠密裡に指令を廻したり、「生産妨害」というような愚挙をするようなことはあり得ない。しかも日本共産党の主張は、党の中央機関紙「アカハタ」の記事にも現われているように、炭礦における災害の根本的原因が、正しいエネルギー政策をもたない合理化の遂行による保安の軽視と労働強化にあるとして、「合理化強行の中止、保安施設の整備、犠牲者家族に対する補償の要求」などを、賃金、労働条件引上げの闘いと一本にして、強く「生命の安全を守る闘い」をしなければならないこと、党員はこの闘いの先頭に立つべきことを強調しているのであり、その党員がそれに反する行動をするというようなことは全く考えられないことである。
「執行部の正体暴露」なるものについては、党員ないし活動家と組合員一般との離間策を目的とした悪意ある創作と考えざるを得ないし、「組夫の組織作り」にしても炭労がすでに行動方針にとりあげているもので、未組織労働者の組織化は労働運動として当然のことであり、共産党だけのことではない。また「赤旗の拡大」についても、党員なら「アカハタ」または「ハタ」と書くところであり、しかも「アカハタの拡大」なるものも党員としては当然のことで、特定の時期に特にそのため運動をするというものではなく、「生産の妨害」なるものと同一の書面で指示すべきことではない。
右の文書には前記「赤旗」という表現のほか、「組識」、「防害」という誤字があり、またあまり目につかない点であるが「指」「害」「執」なども誤字であるが、被控訴人泉は昭和二二年に控訴会社に入社して以来、その大半を組合役員(特に書記長が長い)をしてきた組合運動、組織活動の実践者であり、そういう人間にとつて特に組織という文言は日常もつとも数多く使われるものの一つであつて、そういう者が組織の織を間違つて書くことはあり得ないところである。
泉が昭和三六年一一月四日に小川労務課長補佐を訪ねて抗議したことは事実であるが、それは何か名前を書いたり消したりしたものを泉の落し物だとして見せているという噂をきいたので、平素労務でやつている思想調査の結果を、泉の落し物だということにして外部に見せていると思つて抗議したものであるし、そもそも被控訴人らは翌一一月五日控訴人から出勤停止の通告を受け、本件文書の写を見るまで、生産阻害といい、出勤停止といい、何のことか見当もつかなかつたのである。
更に本件文書の回覧の順序がきわめて不自然である。控訴人の主張および文書の記載によると、追泉、早坂、中田、峰田、高橋(敬)、新居、平間の順ということだが、これは社宅の配置から見ると、ことさら遠いところ、遠いところと選んでいることになる。社宅の順からいくと、追泉、横沢、平間、新居、早坂、高橋(敬)、中田になる筈である。また、回覧の氏名を棒線でわざわざ判読しにくいように消していることも、おかしいことで、消さねばならぬ必要がどこにあるか、どうしても見た印が必要ならば簡単なチエツクで足りる筈である。その抹消についても、インクの濃淡は写しのため判らないが、消した線の太さからみて同一のものでやつたという疑念がある。
三 本件文書を被控訴人泉が作成したものであるかどうかについて昭和三六年一一月一八日に炭労の第一回特別対策委員会は「事実究明の緊急措置としてとりあえず筆跡鑑定を依頼する。その手続は炭労の顧問弁護士である佐伯静治氏を通じて行なう。」との方針を決定した。そこで佐伯弁護士は、事件が労働組合や共産党に関係するので、警察の鑑識系統の人でなく、学者の鑑定を求めたいと考え、炭労もこれに同意した。まず考えられるのは、古文書学では東京大学史料編さん所、書道史では東京国立博物館であつたので、とりあえず国立博物館に行きその旨依頼したところ、同館では一切鑑定には応じないことにしているし、史料編さん所も同様ときいているとのことであつた。そこで次善の方法として館外の適当な学者の推薦を依頼したところ、伊木寿一氏を推薦された。伊木氏はもと東京大学史料編さん官、現に慶応、明治、立正等の諸大学で講義をされている日本史、古文書学の老大家で日本文書学という著書もあり、裁判関係の鑑定についても経験の深い人である。かくて得られたのが伊木鑑定(甲第三号証の一)である。
ところが、これより先に、組合(尺別労働組合)においても鑑定を依頼することを決定しており、これは炭労の鑑定がなされることになつてから中止することになつたが、連絡が間に合わず、東京に出張した組合幹部が高村巌氏に鑑定を依頼してしまつた。かくて得られたのが高村鑑定(甲第五号証の一、乙第二一号証)であり、高村氏は警視庁の出身ということである。
また炭労とは全く無関係に日本共産党においても鑑定を依頼し、同党北海道地方委員会から道炭労に渡されたものが藤田鑑定(甲第四号証の一)である。藤田経世氏は、もと東京国立博物館書跡室長であり日本美術史の権威として知られ、書道史学者でもあつて、美術出版社刊日本美術全史の編集者であるとともに、右全史、平凡社刊世界美術全集、東京大学出版会刊弘仁貞観時代の美術、信貴山縁起絵巻等に執筆している。ただ藤田鑑定は、このようにして入手したものであるため、対照に使用した泉の筆跡がどこへ行つたかわからないのは残念である。
四 遠藤鑑定は「同一人の筆跡なりと推定する。」「コピーではあるが大体わかつた。」
一鷹鑑定は「完全なる鑑定とは言えないが」「同一人の筆蹟であると鑑定いたします。」
高村鑑定は「同一人のものと認められる公算が極めて大であるが・・・・充分に検査することに困難を極め、未だに明確な結論は得られない。」
伊木鑑定は「いずれかといえば相違という方に多少のウエートがあるかとも思われるが、共通の方にもまた捨てがたいものがある。それで双方にこれ以上独特の証拠、すなわち、この人でなければ出て来ないという書風筆法がない限り、黒白の断定は避けたい。」
藤田鑑定は「同一人の筆跡と認定することは困難である。」「原品を実査し得た場合には別の判断が生まれる可能性もあり得る。」とそれぞれ結論する。
筆跡の鑑定は、もともと絶対確実とはいえないのは当然であるし、また殊に本件では当の対象たる筆跡が写しなのであるから、なおさら困難な筈である。それにしても、五人の鑑定がそれぞれ違うということは、いかに本件鑑定が困難であるかを示すものといえよう。したがつて鑑定の結果から見て本件文書が被控訴人泉の書いたものであると認定することは困難であるといわなければならない。しかも鑑定内容を詳細に検討してみると、同一人の筆跡だとする根拠は、いずれも疑わしく、かえつて同一人の筆跡でないと推定されるようにさえなつてくる。
五 正当な事由のない解雇は許されないとすることは、これを解雇に正当事由を要するとか、正当事由なき解雇は解雇権の濫用だとするかは別として、今日においては学説、判例の一致して認めるところである。解雇権濫用の法理は、労働者の生存権の要請にもとづいている。労働者の生存権は、まず何よりも労働することの確保と労働条件の維持向上によらなければならない。労働することの確保は、一方において就労する機会を確保することと、他方において現に労働している地位を喪失しないこととの二つの方面から考えられる。ところで一方、解雇権は、使用者にとつて企業の合理的経営のために必要とされるものであるから、経営上の必要を超える解雇は解雇権の目的に反することになる。すなわち一方における労働者の生存権の問題と、他方において企業の合理的経営要請の調整点として、解雇の正当事由ないし解雇権の濫用の法理が考えられるのである。したがつて企業の合理的経営のために必要でない解雇は解雇権の濫用だとすることは、この両者の要請の調整点としてまことに合目的的だというべく、使用者に不当な重荷を負わせるものではない。現在多くの労働協約、就業規則が、解雇基準を具体的に設定し、正当な事由なく解雇されないことを保障しているのは、このことを事実をもつて示すものである。
そうだとすると、正当事由ありと信じ、かつ信ずるに過失なくして解雇した場合であつても、客観的に正当事由が存在しないならば、その解雇は解雇権の濫用に当ると解すべきが当然であろう。客観的に解雇すべき事由がないならば、いかに解雇時に事由ありと信じ、かつ信ずるに過失がなかつたとしても、この雇傭を継続することは企業の合理的な経営にはいささかも支障がなく、かつ労働者の生存権の要請を守り得るからである(参考、石崎政一郎「解雇権の濫用」末川先生古稀記念権利の濫用下二四四頁以下、荒木誠之「生存権の保障と労働関係」野村平爾教授還暦記念論文集、団結活動の法理五〇六頁以下)。
しかも本件にあつては、仮に控訴人において右の正当事由があると信じたとしても、本件解雇前に、すでに伊木、高村両鑑定が出されており、異なる鑑定のあり得ることが明らかにされていたのであるから、控訴人には過失があつたものといわなければならない。また控訴人は信頼関係を云々するが、信頼関係は客観的な事実のうえにおかれるべきものであつて、客観的には信頼を失うべき理由がないにもかかわらず、誤つて信頼を失つておいて、信頼関係を喪失したから解雇するというようなことはあまりにも恣意的である。控訴人は退職の自由と解雇の自由とを対比しているが、使用者と労働者の対等を実現することの要請が公認されている今日では、解雇の自由なるものは、そもそも認め得られない。しかも、雇傭関係は使用者にとつては財産上の拘束を受けるだけであるが、労働者にとつては人格的拘束を受けることであるから、退職の自由は人格の自由として原則として絶対的自由が認められなければならないが、退職の自由と解雇の自由とは全く次元を異にし、同時に対比されるべきものではない。
(疎明関係省略)
理由
一 控訴会社が石炭の採掘、販売などを目的とする株式会社であつて、北海道白糠郡音別町に尺別礦業所を置いているほか、北海道内に雄別、茂尻の各礦業所を置いていること、被控訴人らがいずれも控訴会社に雇傭され尺別礦業所に勤務していたが、昭和三七年一月二〇日付で控訴会社から、「昭和三六年五月二九日付中央協定書第二項ならびに同議事録抜萃により、昭和三七年一月二二日付をもつて解雇する」旨の意思表示を受けたこと、右解雇の理由の要旨が「被控訴人らは、かねてから控訴会社の生産を阻害する行為をしていたが、昭和三六年一〇月五日頃、被控訴人らの間で『今後の行動について』と題する文書(本件文書)を作成回覧して具体的な生産阻害行為を共謀企図するに至つた。」というにあること、はいずれも当事者間に争いがない。
しかしてまた控訴会社の職場には、尺別礦業所の従業員で組織され、前記解雇(以下「本件解雇」という。)の当時被控訴人らが所属していた尺別労働組合(組合)のほかに、雄別、茂尻の各礦業所の従業員で組織されている労働組合があり、これらの組合が雄別炭礦株式会社労働組合連合会(連合会)を構成していること、本件解雇にいわゆる昭和三六年五月二九日付中央協定書(第二次中央協定)とは、同日控訴会社と連合会との間に成立した書面による協定であり、同議事録抜萃(議事録抜萃)とは同日の団体交渉の第二項およびこれに関連する議事録抜萃(両者の総称「第二次中央協定等」)の内容が、原判決別紙二に記載のとおりであること、はいずれも当事者間に争いがない。
二 そこでまず本件文書が果して存在するか否かの点と、これが被控訴人らの解雇に進展した事実関係について考察する。
(一) 本件口頭弁論の全趣旨により成立の真正を推認し得る乙第二、第三号証の各一、成立に争いのない甲第一〇号証の一ないし三、同乙第五号証の二、原本の存在および成立に争いのない乙第五号証の一、同乙第六号証の一ないし八、原審証人新居昭七、苫米地春郎、原審ならびに当審証人小川日出男、当審証人岩佐嘉甫也、津田博史の各証言、乙第一号証の一、二の存在および本件口頭弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を一応認めることができる。
(イ) 申請外新居昭七(旧姓工藤)は昭和三三年二月控訴会社の坑内間接夫(保安係通気関係)として採用され、昭和三六年八月坑内直接夫(採炭夫)に転じた者であるが、同人は先に強盗傷人罪により懲役六年の刑に処せられたことがあり、仮出獄後昭和三二年一二月から翌昭和三三年一二月まで保護司である小川日出男の保護観察に付せられていた。なお新居はもと控訴会社の下請業者の従業員(いわゆる組夫)であつたが控訴会社の資材課に勤務していた新居アヤコといわゆる婿養子縁組をし、代替採用として控訴会社の従業員となつたものであり、前記小川保護司は控訴会社の尺別礦業所労務課外勤係長であつたので、保護観察所長と打合せのうえ、新居が保護観察中のものである事情は伏せたまま控訴会社に採用方を進達したものである。
元来、控訴会社の尺別山もとの居住区は戸数三百五六十戸の閉鎖的な社会であり、(その殆どが親族関係で結ばれている。)、新居は婿入りした関係から山もとで親しくする者もなく、保護司である小川を何かと頼りにしており、仮出獄の期間が満了するまで真面目に働らき、保護観察が終了したのちも小川とは緊密な接触を保つていた。一方小川は昭和三四年七月以降尺別山もとの新居の居住区である一区の区長を兼務することになつたので、新居の妻アヤコやその母も小川を信頼して何かと相談を持ちかけ、小川も新居の行状に注意を与え借金の始末をしてやつたり、時には叱りつけるというようなこともあつた。
(ロ) 昭和三六年一〇月五日午後六時前頃、新居は小川の自宅を訪ね、「困つた問題があるんです」「困つた文章を見たんです」「小川さんだけで止めて会社には出さないで貰いたい」との趣旨を述べて、持参した本件文書を見せた。本件文書は後記の封筒に入れられた白色の西洋紙半截判で、四ツ折にされており、その片面に
「今後の行動について
一、組夫の組識作り
一、赤旗の拡〔編注:原文では「広」の上の点はありません〕大
一、生産の防害
生産の防害について指示を与へる
ベルトコンベア、チンコンベア、軌道等
に障害を加へて生産を防害する
一、執行部の正体を暴露する
以上
九月三十日 組合にて
本紙回覧の上は直ちに焼却の事
早坂 新居 高橋 中田 峰田
(判読不能) 追泉 平間 横沢」
とインクで記載されており、終りの部分の姓の記載については、追泉、早坂、中田、峰田、高橋、新居の順序に矢印棒線が引かれ、新居の名はタテ線往復三条、峰田の名はタテ線三条、早坂、高橋、追泉の名はタテ線二条でそれぞれ抹消されているが原記載は明瞭に看取され、中田の名はタテ線数条で克明に抹消されているが抹消した部分のインクは色が薄く、抹消前の中田という字が明らかに読み取れるようになつていて、平間、横沢の名だけが抹消されずに残つていた。
また本件文書を入れた封筒は表面下部に四角の枠線の中に「日本炭鉱労働組合」という名称と住所とが横書に印刷され、その上部に「北海道白糠郡音別村尺別炭山尺別炭鉱労組殿」と宛名が記載された褐色の堅い用紙で作られた使用ずみの封筒で、その上部と下部はそれぞれ約二・五糎の幅に赤鉛筆で赤く塗られているものであつた。
(ハ) 小川は本件文書を一読して新居に「これは重大な文書じやないか、どこから持つて来たんだ」と尋ねたところ、新居は「同日午後五時頃被控訴人高橋(敬)から貰つたもので、きよう平間信一のところに持つて行くのだ」と答えた。そこで小川は新居を待たせておき自宅から電話で控訴会社労務課長代理苫来地春郎の自宅に連絡をとつたうえ、本件文書を携えて自宅から至近距離にある苫米地方に赴いた。そして苫米地方において両名で本件文書の内容を検討したが、とりあえずそのコピーをとろうということになり、小川は自宅に戻り、苫米地が本件文書を持つてジープで約四キロメートル離れた控訴会社の山上総合事務所に行き、トーコープという複写機の操作を知つている総務課の鴨川某と労務課の長谷川某を呼び出して本件文書と封筒とを三部ずつ複写させた。そして苫米地は右両名には本件文書の内容を当分他言しないように口止めして午後七時頃小川方に立寄り本件文書と封筒の原本を返却したうえ、複写した分を持参して控訴会社事務副長岩佐嘉甫也方に行き岩佐に事情を報告した。これまでの間において本件文書の作成者は誰であろうかとの話がでたが、「九月三十日組合にて」とあること及び本件文書を入れた封筒が組合宛のものであるところから、当時組合(尺別労働組合)の専従役員たる書記長であつた被控訴人泉ではなかろうかとの疑が持たれた。
一方小川は苫米地から本件文書の原本を返して貰つてから、これを新居に渡し、「今度お前その書類はどこへ持つて行くんだ」と聞くと「平間が二番方から帰るのを待つて、みはからつてそこへ持つて行くんだ」と答えたが、小川はまた「君の心配していることについてこちらも考えるから、とにかく今後まじめに、あまり出歩きしないようにして、まじめに勤務していろ、こちらの考え方がきまつたら連絡するから、それまで誰にも口外しないように」と申し向けて新居を送り出した。
(ニ) 岩佐は翌一〇月六日に控訴会社尺別礦業所長角替徳就に本件文書の複写を提出して経過を報告し、技術副長の深海某を交えて本件文書の内容を検討するとともに対策を協議したが、その頃苫米地から九月三〇日の組合の当直は被控訴人泉であつたことが判明したとの報告がもたらされたので、本件文書の作成者は泉である疑いが濃いとして、泉の筆跡である「尺別労働組合福祉共済規程」なる原稿(乙第二号証の三の原本)を取り寄せ苫米地に比較対照させてみると筆跡が酷似しているということであり、更に本件文書に名の出て来る者全員の筆跡(賃金伝票)とも対照させたが泉以外の分は似ているものが見当らないということであつた。そこで岩佐らは本件文書は泉が作成したものにほとんど間違いないと考えるに至り、右筆跡対照のための文書をもトーコープで複写させ、更に本件文書による指示にもとづき生産妨害が行なわれるおそれがあると判断して、坑内担当の坑務課と保安課の係長以上の職員に右の事情を明かして警戒を厳にするよう命ずるとともに、労務課外勤係長である前記小川に坑外の警戒方を命じた。かくて岩佐は同月一〇日に東京の本店で行なわれる経営協議会に出席すべく、本件文書と前記筆跡対照用文書の各複写を携えて同月八日頃尺別を出発し、途中札幌から本店に電話して総務部長津田博史に事件の概要を報告した。そして本店において経営協議会と並行して控訴会社の首脳部の間で本件文書の問題が検討され、とりあえず遠藤恒儀に右文書の筆跡鑑定を依頼するとともに、津田が同月二五日尺別山もとに出張し、直接新居昭七に面接して本件文書入手の経緯を確めたところ、同人は小川に対して述べたと同趣旨のことを述べ「誓つて嘘ではない」というので、津田としても新居のいうところに間違いないものと考えた。しかるところ遠藤に依頼した鑑定書(以下「遠藤鑑定書(1)」という。)が同年一一月一日に提出され、両文書の筆跡は「同一人の筆迹なりと推定する」との結論であつたし、同じく札幌において一鷹秀綱に依頼した鑑定書(以下「一鷹鑑定書」という。)が同年一〇月三一日に提出され、「同一人の筆蹟であると鑑定いたします」との結論であつたから、控訴会社では被控訴人らと平間および新居が新居の供述するとおり本件文書を作成回覧したものと確信し(高橋(与)および泉は本件文書に名前が現われていないが、右筆跡鑑定の結果に照らし泉が本件文書を作成したものであることは明らかであると考え、高橋(与)は本件文書に「赤旗云々」とあり、高橋(与)が日本共産党員であつて、後記認定のように同党尺別細胞の細胞長であるところから、同人が本件文書を発出したものと考えた。)、これらの者を解雇する方針を決定し、同年一一月四日組合に対し右解雇の承認を得るための団体交渉を申し入れるとともに、各該当者に対し同年一一月六日出勤停止の通告をした。
以上の各事実が一応認められ、これを覆すに足りる反対の疎明はない。
(二) しかして右団交申入れから昭和三七年一月二〇日付で本件解雇がなされるまでの経過についての当裁判所の認定は原判決理由第二の一、1、のうちの(一)(原判決二七枚目裏三行から三〇枚目裏一行まで)と全く同一であるから、これを引用する。当審において提出された疎明資料中にも右認定を覆すに足りるものは存在しない。
三 そこで本件文書が控訴人の主張するように被控訴人泉によつて作成されたものであるかどうかを筆跡その他の諸事情によつて検討する。
(一) 伊木鑑定書、藤田鑑定書、高村鑑定書(1)(2)、遠藤鑑定書(前出乙第二号証の一)、一鷹鑑定書の比較検討についての当裁判所の判断は原審と全く同一であるから、原判決理由第二の二、2、(一)、(1)(原判決三二枚目表一三行から三九枚目表九行まで)を全部引用する。ただし同所において「遠藤鑑定書」とあるのは「遠藤鑑定書(1)」と読み替えるものとする。
(二) 更に本件文書の筆跡が被控訴人泉のものと認められるかどうかについての資料として、当審で提出された成立に争いのない甲第三三号証の一(以下「遠藤鑑定書(2)」という。)がある。同号証の記載によれば、同鑑定は本件第一審判決のなされたのち昭和三八年一二月二〇日控訴代理人から再度委嘱されてなされたものであり、遠藤鑑定書(1)が対照資料として「尺別労働組合福祉共済規程」と題する書面の複写版(その原本が被控訴人泉の自筆であることに争いのない乙第三号証の三―同じく伊木鑑定書の対照資料として用いられた甲第三号証の六、同じく高村鑑定書(2)の対照資料として用いられた甲第五号証の三とそれぞれ同一のもの)一通を用いたのみであつたのに対し、右資料のほか、更に(イ)「誓約書」と題する書面(伊木鑑定書の対照資料として用いられた甲第三号証の五および一鷹鑑定書の対照資料として用いられた乙第三号証の二―いずれもその原本が被控訴人泉の自筆であることに争いがない―の原本であると認められる。)、(ロ)「尺別動員団一同から組合あての葉書」の複写版(その原本は伊木鑑定書の対照資料として用いられた甲第三号証の三―被控訴人泉の自筆であることに争いがない―であると認められる。)、(ハ)「出張報告書」と題する書面の複写版(伊木鑑定書の対照資料として用いられた甲第三号証の七―その原本が被控訴人泉の自筆であることに争いがない―と同一のもの)、(ニ)「ペン書による弔辞原稿」(被控訴人泉の自筆になるものであることに争いのない乙第三三号証の二)、(ホ)「鉛筆書による弔辞原稿」(被控訴人泉の自筆になるものであることに争いのない乙第三三号証の三)、(ヘ)「社宅私費増改築願」と題する書面のうち願出人のペン書による記入部分(被控訴人泉の自筆になるものであることに争いのない乙第三三号証の四)の六通の文書を対照資料として検討した結果、本件文書と前記「尺別労働組合福祉共済規程」と題する書面および右(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)の各文書の筆跡とは「同一人なりと推定する。」という結論を下している。
遠藤鑑定書(2)も同鑑定書(1)と同じく、個々の文字における筆鋒を重視し、個々の文字における類似点を詳細に説明している。特に同鑑定書(2)において対照資料として用いられた(イ)(ニ)(ホ)(ヘ)の文書は複写版でなく原本であるから同鑑定書(1)に比して鑑定の精度は向上しているとみてよい。そして同鑑定書(2)は、これら各文書を「比較対照したのであるが、筆鋒の部分的条件に於ては変則するものを認めたが、全体的の特徴特質に於ては最も多くの共通性を看取したのである。よつてこの部分的条件の変則について更に追究検査を行つたのであるが、字体の相違、この字体の相違によつて起る省略の相違、文字の大小による運筆活動範囲の相違等によつて生じたものであるものと考察されたのである。」とし、その比較対照は本件文書の殆んど全部の文字につき対照資料中のこれと類似する文字を抽出してなされたもので、その説明するところは傾聴するに足りると思われる。
しかしながら同鑑定書(2)を伊木鑑定書と比較するとき、先に引用した原判決の指摘する「尺別労働組合福祉共済規程」との対照における相異点に関する部分のほか、同じ対照資料である(イ)の「誓約書」、(ロ)の「尺別動員団一同から組合あての葉書」と本件文書における「ヒトカンムリの左右両画の組合せ」、「ニンベンの第二画および行ニンベンの第三画の筆法」、「にの字における最後の画の引き方」、「「の曲部の筆法」、「をの字の筆法」、「るの字の筆法」「はの字の末端部分の筆法」、「横一文字の先端の筆法」等の顕著な相異点についての説明がなされていない。そして同鑑定書(2)は同鑑定書(1)と同様に微視的であり文字全体としての特徴が軽視されている傾きがあることは否めないのであり、共通点の説明の中にもたやすく理解し難いところがある。以上の諸点からして遠藤鑑定書(2)も伊木鑑定書の疎明力を減殺するものではなく、各鑑定書のうちでは伊木鑑定書が最も疎明としての価値が高いものとする原審の判断は当裁判所もなお同様にこれを維持すべきものと考える。
(三) 次いで本件文書の用字、用語を見るに、伊木鑑定書、遠藤鑑定書(1)(2)も指摘するように、本件文書はわずか一三行一二九字のうちに「組識(織)」、「拡〔編注:原文では「広」の上の点はありません〕(拡)大」、「防(妨)害」(三カ所)の誤字があるほか「与へる」、「加へて」と旧かなづかいを用いている点に特徴がある。そして右誤字の点につき伊木鑑定書は、対照資料たる「交渉経過」と題する書面(被控訴人泉の自筆であることについて争いのない甲第三号証の八)の「説(設)定」のほかには対照資料中のその余の多数の文字のなかに、ほとんど誤字というべきほどのものが見当らないとして「これは双方の筆者の学力を示すもので、同時に別人の一証ともなりうるであろう。」とし、「組織」という字については対照資料たる「第九回幹事会議事録」と題する書面(被控訴人泉の自筆であることに争いのない甲第三号証の四および一〇)ならびに前出「誓約書」および「一般経過報告書(書記長)」と題する書面(被控訴人泉の自筆であることに争いのない甲第三号証の九)にあらわれた織または職の字は、すべて紜または[耳云]と略字を用いていることをも指摘している。また伊木鑑定書は旧かなづかいの点につき対照資料たる各文書中「交渉経過」と題する書面(前出甲第三号証の八)の「考へて」のほかは全部新かなづかいであることをもつて「双方の筆者が別人であることの傍証となりうるかも知れない。」とする。
これに対し遠藤鑑定書(2)は本件文書の旧かなづかいの点につき、前掲「鉛筆書による弔辞原稿」(乙第三三号証の三)において「迎えた」、「給え」と新かなづかいを用いているのは「平素旧仮名づかいで書く人でも特に注意して書く場合は新かなづかいで書くこともあり得る」から「かなづかいの相違は、にわかに別異の筆跡なりとする条件に加えることはできない。」と附加説明する。
右伊木、遠藤の両鑑定書に共通の対照資料たる「尺別労働組合福祉共済規程」と題する書面は、原稿用紙に書かれたもので若干の訂正加除部分があり、立案の過程にある文書の草稿であることが窺われるが一応文案や用語が練られて完成の域に近くなつたものであることは右文書自体から認め得るところであつて、その文章については被控訴人泉以外の者の手が加えられたものと推認すべきであるから、右文書のかなづかいや誤字誤用の有無の点を本件文書と比較することは相当でないと考える。なお、このことは高村鑑定書(2)の対照資料とされた「尺別労働組合罷業補償規定」と題する書面(被控訴人泉の自筆であることに争いのない甲第五号証の五)についても同様である。
ところで遠藤鑑定書(2)の対照資料とされた「ペン書による弔辞原稿」(前出乙第三三号証の二)には「答へて」、「迎へた」、「答へる」と三カ所に旧かなづかいが見られ、これと前掲「交渉経過」と題する書面(甲第三号証の八)中の「考へて」なる記載とを併せ考えると、被控訴人泉にはハ行下一段活用(口語)の連用形および終止形の語尾変化は旧かなづかいを用いる習癖があるかのようにもみえる。しかしながら右乙第三三号証の二には右のほか「救い出す」、「思う」、「言う」、「用いて」などハ行四段活用形または上一段活用形(いずれも口語)の語尾変化「ひ」または「ふ」の部分を「い」、または「う」と新かなづかいによつているし、同甲第三号証の八においては「加えて」なる用法が見られ、ハ行下一段活用の連用形においても新かなづかいによつている。また同じく「鉛筆書による弔辞原稿」(乙第三三号証の三)においては遠藤鑑定書も指摘するとおり「迎えた」、「給え」のほか「思えば」の用法が見られ、「給え」は命令型であるから一応考慮のほかに置くとしても「迎えた」、「思えば」については右乙第三三号証の二と同一の活用形につき新かなづかいによつているのであるから、必ずしも被控訴人泉にこのような旧かなづかい使用の習癖があるものとも認め難い。当審における被控訴人泉信夫本人尋問の結果によれば同人は大正一〇年三月二〇日生であることが認められるから、戦前の旧かなづかいの教育を受けてきたものであり、一方、本件口頭弁論の全趣旨によれば戦後は長らく組合役員(主として書記長)として組合関係文書の作成等に携わつてきたことが認められるから新かなづかいの文書にも親しんできたものというべく、新旧かなづかいの混用がみられるとしても無理からぬところであろう。
これに対し誤字誤用の例は伊木鑑定書の指摘する前記「説(設)定」のほか、前記「ペン書による弔辞原稿」および「鉛筆書による弔辞原稿」のうち「必至(死)」、「{穴射}み(窮み)」があり、原判決も引用する藤田鑑定書によれば、このほか「底賃金」、「底下」、「体度」といつた誤用のあることが窺われるが、本件文書にあらわれた「防害」の誤用はともかくとして、「組識(織)」の点は前記のとおり組合の書記長として労働運動に長く従事している被控訴人が「組織」という字を誤記することは考え難いところであるし、伊木鑑定書も指摘するとおり対照資料においては「組織」の誤記は認められず、しかも原則として「組紜」と略字を用いている点と対比すると、この点はむしろ本件文書が被控訴人泉の筆書したものでないことを推認し得べき資料となるものといえよう。更に本件文書のうち「拡大」の拡の字のつくりの上部の点が脱落しているのは単純な誤記とも考えられるから特にこれに重きを置くことは相当でないが、前掲「尺別動員団一同から組合あての葉書」(甲第三号証の三)、同「誓約書」(甲第三号証の五)、「ペン書による弔辞原稿」(乙第三三号証の二)、「鉛筆書による弔辞原稿」(乙第三三号証の三)等には「炭砿」という字が何カ所にも現われており、そのつくりの広は正確に書かれているのであるから、被控訴人泉が「拡」のつくりを誤記することも首肯し難いところである。しかしてまた日本共産党員である同人が同党の機関誌である「アカハタ」を「赤旗」と書くことについても疑問が持たれる。
なお本件文書には被控訴人の指摘するように「指」、「害」、「執」についても微細の点に画数の誤りが認められるが、この程度の誤記は楷書で丁寧に書く場合を除いて往々一般人にもあり得るところであるから特に取り上げるには値しないと考える。
以上を要するに、各鑑定書を比較検討し、特に伊木鑑定書の指摘する、本件文書と対照資料との比較における顕著な相異点を見るとき、結局本件文書の筆跡が被控訴人泉のものであるとは断定し難いものというほかなく、他にこれを認めるに足りる疎明資料は存在しない。
四 よつて本件文書の筆跡の点を除き、なお本件文書が被控訴人らにより作成され回覧されたものと認め得るか否かについて考察を進める。本件文書を控訴人が入手閲覧してこれを複写した経緯は先に認定したとおりであり、原審証人新居昭七は本件文書の入手につき、前認定の小川および岩佐に述べた内容と同趣旨の証言をし、更に右文書を平間に手渡した点につき「一旦家へ帰つて一一時近くになるまで、平間が二番方で来ることがわかつていたので、テレビを見たりして時間の来るのを待ち、一一時頃平間の家に行き、平間に会つて、本件文書を封筒に入れたまま、横沢に渡してくれといつて渡した」との趣旨を供述し、原審における申請人平間信一本人の供述によると、平間は同日二番方(尺別礦業所での勤務時間は、一番方七時三〇分から一五時三〇分まで、二番方一四時から二二時まで、三番方二一時から五時まで、であることは本件口頭弁論の全趣旨により認められる。)であつたことが認められるのである。
これに対し被控訴人ら及び申請取下前の平間信一は原審ならびに当審における本人尋問において、いずれも本件文書の作成回覧を否定する供述をしている。そしてまた被控訴人高橋(敬)は「昭和三六年一〇月五日は一番方に勤務し勤務を終つて帰宅したあと午後四時二〇分新尺別駅発の汽車で岐線(国鉄尺別駅)に出て、尺別駅で到着していた荷物を受け取り、尺別駅附近でビラ貼り等をしたのち、菅原某方に立寄り酒を飲んで三、四時間歓談し、岐線発午後八時頃の汽車で新尺別駅に帰つた」との趣旨の供述をするが、原審証人一村清の証言により成立の真正を認め得る乙第二二号証の一と原審証人一村清、太田正雄の各証言を総合すると、同日被控訴人高橋(敬)は新尺別駅発午後七時一二分発の汽車で岐線に出たことが認められるから、新居昭七が高橋(敬)から本件文書を受け取つたとする午後五時頃には同人は尺別山もとに居たものと推認される。
しかしながら、以上の諸点からは証人新居昭七の証言と被控訴人本人らの各供述のいずれが真であるかは、なお、にわかに決し難いところである。そこで被控訴人らが昭和三六年一〇月初め当時、本件文書のような書面を回覧する必然性ないし可能性があつたかの点について検討するに、被控訴人らのうち、泉、高橋(与)、追泉、峰田、高橋(敬)、中田の六名が当時日本共産党の党員で、日本共産党尺別細胞を構成し、当時の細胞長が高橋(与)であつたことは当事者間に争いがないところ、被控訴人ら及び申請外平間信一、新居昭七が控訴人の主張するような特別なグループを形成し、統一的な意思にもとづいて行動していたかどうか、本件文書による指令およびその内容が当時の客観状勢に符合するかどうか、また従来尺別細胞において細胞長が独自の判断にもとづいて細胞員らに文書回覧の方法で指令を出した事例があるかどうか等についての当裁判所の判断は原判決理由第二の二、2(一)の(2)のうち「(イ)(a)(b)(c)(d)および(ロ)(a)(b)(c)(d)(e)(f)ならびに(ハ)(ニ)」(原判決三九枚目裏八行から四八枚目裏一二行まで)に記載するところと全く同一であるから、ここにこれを引用する。
すなわち、以上に考察した諸事実に、前認定のとおり本件文書の筆跡が被控訴人泉のものと断定し難いことを併せ考えると、被控訴人らが本件文書を作成回覧したとするについては、なお疑問が存するといわざるを得ない。特に本件文書のうち生産妨害を指示する部分は、被控訴人らが極秘裡に右文書を回覧して、現実に企業破壊を共謀企図したとするには、その内容があまりに簡単かつ抽象的にすぎ、果して右文書の指示によりいかなる行為をすればよいことになるのか、しかも回覧の上は直ちに焼却すべきことを命ずる程の重大な指示を、文書回覧という漏洩の危険の多い方法で伝達する必要が存するのか、むしろ細胞会議等を招集して口頭で指示し、参集し得なかつた者に対してのみ使者または書面で伝達する方が安全確実ではないか、本件文書が名宛人に確実に回覧されたことを発出者において確認する方法が講じられていないのはいかなる訳か、等の疑問を払拭することができないのである。
なお原審における被控訴人泉本人尋問の結果によれば、泉は控訴会社が組合に対し被控訴人らの解雇に関する団体交渉を申し入れた当日である昭和三六年一一月四日に組合用務のため出張していた東京から尺別山もとに帰着し、直ちに小川労務課長補佐(当時)に面会を申し込み、「何か落し物を拾つたそうではないか、拾つたものなら正当な届けをすべきではないか」との趣旨を述べて抗議し、その落し物がどんなものであるかということは尋ねなかつたことが認められるが、同本人の供述のその余の部分によれば、泉は何か名前を書いたり消したりしたものを労務が入手してひとに見せていると聞いたので、労務で調査したものを泉の落し物ということにして見せているのではないかと思つて抗議したというのであつて、前記認定のとおり控訴会社では本件文書を入手したのち坑内担当の坑務課と保安課の係長以上の職員に事情を明かして警戒を命じているのであり、また本件口頭弁論の全趣旨によれば、労務課員の一部に本件文書の写しを示して被控訴人泉の筆跡かどうかを確かめたことが認められるのであるから、その程度の噂が一部に流布していたことはあり得ないことではないと考えられるし、泉が小川に対しその文書がどんなものであるか問い訊さなかつたことをもつて、控訴会社の入手したものが本件文書であることを察知していたと推認することは困難である。
また原審証人新居昭七の証言中には、被控訴人らが出勤停止処分を受けた同年一一月六日正午頃組合事務所の近くで自転車に乗つて来る被控訴人早坂に呼び止められ、「今日の団体交渉の問題知つているか」と聞かれ、「知つている」と答えると、「例の問題ではないのか、誰か言つたんじやないのか、お前が飲んで誰かにしやべつたんでないのか、お前がしやべつたのでないならデツチ上げで頑張ろう」との趣旨のことをいわれたとの部分がある。そして原審において被控訴人早坂本人は、その頃その場所で新居に会つたことはあるが、新居の方から「今日団交があるのを知つているか、大量の首切りがあるそうだ」というので、「現在闘争も終つて平和になろうとしているのに、今頃首きりなんか出したりしたら山の中はハチの巣をつついたようになるであろう」といつて別れたとの趣旨の供述をしている。右原審における被控訴人早坂本人尋問の結果によれば、早坂は同日は二番方の勤務であつて、新居と会つたときにはまだ会社からの出勤停止通告を受けてはおらず、新尺別発午後一時三〇分の汽車で出勤するつもりであつたので家に戻つて食事をしているとき会社の労務課員が出勤停止の通告書を届けて来たこと、それで早坂はすぐ右通告書を持ち自転車で組合事務所にかけつけたが、組合の執行委員(書記長である被控訴人泉を含む)は団交のため全員不在であつたので待つているうち、同じく出勤停止の通告を受けた他の被控訴人らや新居も集つて来て、間もなく団交を終つて事務所に帰つて来た執行委員らに、どういう事情かと尋ねたが、執行委員から自宅待機の指示を受けて一同引取つたこと、を認めることができる。しかも、前掲乙第五号証の一、二、同乙第二七号証の一によれば会社は同月四日組合に団体交渉を申し入れるに当つては、団体交渉の期日を同月六日午前九時三〇分よりと指定し、内容については当日説明するとの書面を送付したのみであり、右団体交渉の席上において初めて本件解雇の趣旨を明らかにしたものであることを認めることができるところ、前記原審における被控訴人早坂本人尋問の結果によれば、同日朝スピーカーで団体交渉の行なわれることが全山に放送されたことが窺われるが、その団体交渉が本件解雇の問題であることが事前に尺別山もとに漏洩していたことを認めるべき資料は存在しない。他方原審証人新居昭七、当審証人津田博史の各証言によれば、新居は昭和三六年一一月三日か四日に控訴会社の釧路のクラブに呼び出されて控訴会社本店労務課長津田博史等の事情聴取を受け、同クラブに二晩か三晩泊つて六日午前中に尺別山もとに戻つたものであるが、会社は本件文書の作成回覧の事実を理由として被控訴人ら及び新居を解雇するが、新居の将来については会社で面倒を見るという趣旨のことを伝えられていたことが認められる。もつとも前記証人新居昭七の証言中には、同月六日釧路のクラブから尺別山もとに帰る途中岐線の駅でノナミという駅員に、「今日団体交渉があるそうだ、生産阻害の問題らしい、お前もクビでないか」と冗談にいわれたので、早坂に対しても、ノナミから聞いたと話した、との部分があるが、この点は前記のとおり団体交渉の内容が事前に漏洩していたと認めるべき資料が他に存在しないこと、むしろ会社においても解雇の件は団体交渉の席上で初めて明らかにした程であつて、それまでは極力秘密にしていたと認められることに照らすときは、ノナミ某がこのことを事前に知つていたとすることも余りに唐突であつて、この点に関する右証言部分はにわかに措信し難いところである。
以上を総合して考察すると、被控訴人早坂の方から右団体交渉が本件解雇に連なる問題であることを察知していたと見ることについては問題があると思われる。
しかして原審証人新居昭七の証言中には、新居が昭和二三年五月頃日本共産党に入党し別保細胞に所属していたが、昭和三四年八月頃に尺別細胞に加入したとの部分があるが、かつて同人が同党に入党していた事実を認め得ないことは、さきに原判決理由第二の二、2(一)の(2)のうち(イ)(b)を引用した部分に説示するとおりである。さらに同証言の中には、昭和三四年八月頃すでに尺別細胞が存在し、その細胞員が被控訴人中田、泉、追泉、峰田、高橋(与)であり、昭和三六年八月に高橋(敬)が加入したとの部分があるけれども、右は尺別細胞結成の時期、入党した被控訴人らの氏名およびその入党の時期において、前記原判決理由の(一)(2)(イ)(a)における認定と大きな食違いを生じている。また同証言の中には、別保細胞に入る際に何も書いたことがないと述べながら、のちには入党申込書を書いたことがあると思うと述べ、平間信一および被控訴人横沢について昭和三六年二、三月頃に尺別細胞で入党の推薦をしたが、入党を承諾されたかどうか知らないと述べながら、他方には右両名が入党したと述べている部分があり、組夫の組織作りという方針を昭和三五年秋の細胞会議で決定したと述べながら、他方では細胞会議で右のような方針を決定したかどうかはわからないと述べ、昭和三六年九月に入つてからは細胞会議に出席したことはないと述べながら、細胞が公然化した同月三日ののちに一回出席したと述べるなど、供述自体に矛盾があるほか、新居ののちに入党したという被控訴人らの入党手続など、尺別細胞の細胞会議の具体的な内容について供述するところは極めてあいまいである。しかも右新居昭七は先に認定したとおり強盗傷人罪により懲役六年に処せられた前歴を有するほか、成立に争いのない甲第一四号証によれば、昭和三八年一一月および昭和三九年一月にそれぞれ恐喝罪、脅迫罪を犯し、昭和三九年五月一五日札幌地方裁判所において右両罪を併合罪として懲役二年六月に処せられたことが認められ、人格的にも欠陥を有することが窺われるのであつて、結局同証言については一部真実に合致するところは存するけれども、全般的にその信憑力は薄く、そのうち本件文書を被控訴人らが回覧したとする部分はにわかに措信し難いところである。
かくて以上に考察したところを総合すると、被控訴人らが本件文書を作成回覧したとの控訴人の主張事実は本件における全疎明資料をもつてしてもこれを的確に認めることができないといわざるを得ない。
五 控訴人は、被控訴人らが本件文書を作成回覧した行為や、従前の生産阻害行為を個々独立に数えあげて解雇理由にしたものではなく、もともと被控訴人らが有する企業破壊の危険性を理由として解雇したものであると主張する。しかしながら控訴人が本件文書を入手してから本件解雇に至るまでの経緯について前段までに認定した諸事実によると、控訴人は昭和三六年一一月四日組合に団体交渉を申し入れた当時から被控訴人らに対する解雇の決意を固めていたものであり、右決意は「被控訴人らが本件文書を作成回覧して、具体的な生産阻害行為を共謀企図」したことにもとづくものであつて、被控訴人らの「従前の生産阻害行為」なるものは、被控訴人らが平素から控訴人に非協力的なグループに属しており、したがつて本件文書による生産阻害行為の共謀が架空のものではなく、また現実に実行されるおそれが十分にあるという控訴人の判断の素材として考慮されたにすぎないと認めるのが相当である。
しかして原審証人北村富三、久江壬子、工藤英伸、佐藤昭雄、菅原公悦、当審証人山本秀雄、西田三郎、青田勝己、諸橋信雄、近藤松雄、小川努、諏佐泰平の各証言を総合するときは、被控訴人らの「従前の生産阻害行為」として控訴人の主張するような行為についての外形的事実を認め得るかのようであり、またその一部は被控訴人らの自認するところでもあるが、一方これらの証拠のほか前掲乙第二四、第二五号証、第二七号証、成立に争いのない甲第一一号証、第一三号証、同乙第一六号証の一ないし三、第一七号証の一、二、第一八号証、第一九号証の一、二、第二六号証、第二八号証、第二九号証の一、二、第三〇号証の一ないし三、原審証人中川正男の証言ならびに本件口頭弁論の全趣旨を総合すると、昭和三四年頃からいわゆる石炭危機のもとにおいて各炭礦では生産性向上によるコスト引下をめざして企業整備を行なう必要に迫られ、控訴会社においてもその主要なる一環として人員整理の方針をたて、雄別、尺別、茂尻の三山で最小限度五〇〇名弱の減員を計画し、希望退職者の募集を行なう一方同年五月頃から連合会との団体交渉に入り組合の協力を求めたところ、組合は全面的にこれに反対し、炭労の指令により企業整備反対闘争の体勢に入り、いわゆる職場闘争と共に二四時間スト、四八時間ストを繰返し、その間職場規律は乱れ出炭は減少して赤字は累積するので、控訴会社では事態の早期解決をはかるため同年八月一九日希望退職の募集を一応撤回して再度団体交渉を行ない減員措置と配置転換の承認を求めたが妥結に至らず、遂に指名解雇の決意を表明し、組合も同年一〇月頃から再度ストをもつて対抗した結果、同年一一月三〇日会社は指名解雇は行なわないこととして両者間に原判決別紙一の「第一次中央協定等」が成立するに至つたこと、会社は更に企業整備実施のため昭和三五年四月初め頃から連合会との経営協議会において合理化案を提示し、五月末頃からこれを団体交渉に切り替え、特に茂尻鉱業所の大幅な人員減と操業方法の改善、労働条件の不合理是正、職場規律の確立等について協議を行なう一方、再び同年七月末から三山につき希望退職者の募集を始め、一四名について指名による退職勧告をも行なつた結果、相当数の希望退職者があり減員措置についてはある程度目的を達したので同年八月一一日会社は連合会の要求を容れて指名解雇を一応保留することとし、茂尻鉱業所再建を中心として連合会と会社との間に原判決別紙一の「昭和三五年八月一一日付の合意」が成立するに至つたこと、更に昭和三六年に至つても石炭業界の不況は好転せず、北海道でも炭礦の閉山が相次ぐ状況であつたし、控訴会社にあつても有力な炭層涸渇等により経営は更に悪化する傾向にあつたので再び合理化計画を推進すべく同年三月一〇日から団体交渉に入り、四月から希望退職者の募集を行ない、これに対し連合会は五月中に二四時間ストを二回、四八時間ストを二回行なつて闘争するという状況であつたが、会社が希望者を他へ就職斡旋するという方向で減員の見通しも立つたので同年五月二九日原判決別紙二記載のとおりの「第二次中央協定等」が両者間に成立し、ようやく争議は終熄するに至つたこと、このような経過ののち昭和三六年一一月四日被控訴人らの解雇に関する団体交渉の申入れを受けた組合および連合会としては、過去三回にわたる協定で労使間に確認された生産阻害、企業破壊の行為を被控訴人らが真に企図したものであるならばむしろ組合みずから被控訴人らを処分すべきものであるから、会社とは別個の立場で真相を糾明する必要があるとして、とりあえず真相解明の支障となる強行就労等の事態の発生を防止するため同月六日付で被控訴人らに対し自宅待機を指令するとともに、会社の意図する同月一五日付解雇発令を延期するよう要求し、組合に真相調査の調査本部を設置して新居昭七を含む解雇該当者らについて事情聴取を行なう等の調査を開始する一方、会社の団交申入れの理由たる被控訴人らの解雇理由を印刷文書に作成して組合教宣部から組合員に配布周知せしめたが、また炭労の北海道委員会においても本件に関する特別対策委員会を設置して調査に乗り出すことになり独自の立場で筆跡鑑定を行なうとともに事情聴取をも行ない、その依頼による鑑定として伊木鑑定書が一二月二二日に、連合会の依頼による鑑定として高村鑑定の中間報告書(高村鑑定書(1))が同月二〇日に提出されたところ、対策委員会としてはこの両鑑定の結果では黒白はつけられないし、事情聴取の結果も新居のいうところとその余の解雇該当者らのいうところが正反対であつて真疑不明であるから、「疑わしきは罰せず」との法の精神に則り労働組合本来の立場に立つて組合員の生活と権利を守るべきであるとし、解雇が行なわれた場合は実力行使あるいは法廷闘争をもつて闘うとの方針を決定して道炭労新聞でこのことを発表したこと、これに対し尺別山もとにおいては主婦会からこのような危険な行為が実行されるおそれがあつては夫や子を安心して働らかせることができないとの意見表明があり、本件文書の筆跡は被控訴人泉の筆跡を写真にとつて貼り合わせた程似ているとの風聞もあつて、被控訴人らが平素からいわゆる活動家であつたことに照らしても本件文書の作成回覧をやつたのが真相ではないかとの見方が強く、道炭労のいうようなあいまいな態度でいわゆる法廷闘争に持ちこむことには山もとの組合員感情として問題が出てくる、との考え方から、道炭労の前記決定に従うべきか否かについて一二月二六日に行なわれた組合の執行委員会の協議においては、「疑わしきは罰せず」というような観念論では闘いの組織はできない、事情聴取の結果や過去における解雇該当者らの行動等を総合して判断しなければならないとされ、二七日の連合会の総会も同様な経過であつて連合会から各山もとへオルグを派遣して協議を重ねたすえ、昭和三七年一月七日に行なわれた尺別の臨時全員大会においては組合執行部の煮えきらぬ態度を非難するような発言もあつた程で、大勢は被控訴人らに同情的でなく、遂に一月一〇日の全山投票において尺別においては二七一対四二四で先の道炭労の方針を否決するに至り、更に一月一五日の連合会の臨時総会においても同様に道炭労の決定を否決し、「尺別事件の闘争行為の終結をはかり会社提案の解雇は認めざるを得ない。」との結論を承認するに至つたこと、かくて一月二〇日付解雇通告に対して組合は同月二四日に解雇承認を通告し、連合会は二月二日に団体交渉において解雇承認の回答をしたこと、をそれぞれ一応認めることができ、右認定を覆すに足りる反対の疎明はない。
控訴人の主張する被控訴人らの「従前の生産阻害行為」なるものは、前記認定の一連の企業整備反対闘争のもと一般的に職場規律の混乱した当時に発生したものであつて、その所為の一部は組合の統制を逸脱したものであるとしても争議行為の一環として行なわれたものと見得る余地もあるし、岩粉密閉手当、降水手当、空残業手当等の要求についても結局控訴人においてこれを容認したことはその自認するところであつて、あながちこれらを不当要求ということもできないのである。そして職場規律の確立については控訴人と組合との前後三回にわたる協定により漸次その実現をみていたことは本件口頭弁論の全趣旨によりこれを認め得るところであり、このことは本来控訴人の適切な労務管理と組合の自主規制によつて実現すべき事柄である。また被控訴人らの「勤務成績の不良」については、減給、停職、配置転換等の懲戒処分によつてこれを是正し得るところであると考えられる(現に坑務課運搬係であつた被控訴人中田が昭和三五年五月から同三六年一月までの間懲戒処分により坑外作業に従事させられたことは当事者間に争いがなく、また当審証人山本秀雄、西田三郎の証言によれば、被控訴人峰田は懲戒処分により昭和三五年五月一二日から五日間の出勤停止に処せられたことが認められる。)のであり、これらの所為をもつて直ちに「昭和三六年五月二九日付中央協定書第二項ならびに同議事録抜萃(第二次中央協定等)」に該当すると断ずることはできないし、組合および連合会が本件解雇を承認したことも、被控訴人らが現実に本件文書を作成回覧したものであるとの判断の上に立つたものであることは前認定のとおりであるから、組合および連合会の承認があつたことをもつて右解雇の要件が満たされたものとすることもできない。
六 控訴人は、本件解雇は懲戒解雇ではなく労働基準法第二〇条にもとづく予告解雇であり、労働契約の解約告知は使用者の側における自由なる権利の行使であると主張する。なるほど一般に期間の定めのない継続的な契約関係は、各当事者において任意にこれを終了させることができるのが市民法の原則である。もとより労働者の側からする退職の自由は使用者において容易にこれに代わる労働力を調達し得るかぎり一般市民法原理にもとづきこれを認め得るところであるが、使用者の側からする解雇は労働者にとつて生存権、勤労権に連なる問題であつて、生産手段の発展とともに労働の態容が一般に単純化し、就業における規律の保持と能率の向上は科学的な原理に導かれた労働管理により達成されるようになつた今日においては、正当の事由がなければ解雇できないとは言えないまでも、労働関係が労・使相互の信頼を基礎とした継続的関係であることにかんがみ、解雇がはたす機能との関係で合理性のない解雇はこれを抑制すべきものである。したがつて労働契約の解約告知をしようとする使用者がその理由を明確にする必要があるか否かは兎も角として、少くとも使用者が解雇の理由を被解雇者に明示した場合において、その理由に何らの合理性がないか、あるいはその理由を客観的に裏付けることができず、労働関係の全体からみて使用者の解雇権の抑制が相当と認められるときは解雇は権利濫用となり、その効果を否定されるものと解すべきである。
本件における解雇の理由は、前認定のとおり「被控訴人らが本件文書を作成回覧して具体的な生産阻害行為を共謀企図した」とし、昭和三六年五月二九日付中央協定書第二項ならびに同議事録抜萃(第二次中央協定等)に準拠して解雇するというにあるところ、右第二次中央協定等がその従業員を解雇するについての基準を設定した労働協約であるか否かは暫らくおき、労働基準法第二〇条第一の解雇にも権利濫用にならない程度の解雇理由を必要とすると解する立場からすれば、その解雇理由の存在が客観的に認められない本件においては、控訴人においてその理由が存すると信じ、またそのように信ずるにつき無理からぬ事情が存在したとしても、本件解雇は権利濫用として無効であるといわなければならない。
七 そうすると被控訴人らと控訴人との間の雇傭契約は、控訴人のなした解雇の意思表示に拘わらず、現に存続しているというべきであつて、被保全権利の存在することは疎明されたことになる。しかして被控訴人らが賃金を唯一の生活資源とする労働者であることは本件口頭弁論の全趣旨から明らかであり、控訴人から被解雇者として取り扱われることによつて著しい損害を蒙るものというべきであるから、その申立にかかる仮処分を命ずる必要性があるものというべきである。
以上のとおりであるから本件仮処分申請を認容した原判決は正当であり、本件控訴は理由がない。よつて本件控訴を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九五条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 田中恒朗 中村義正 島田礼介)